お題:利他の心の根底に利己はあるのか?
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」・・・宮沢賢治『農民芸術概論綱要』(1926)の一節である。しばしばこの部分だけを取り上げて、賢治の博愛精神を賛美するといった読み方がされている。しかし賢治は素朴なヒューマニストではない。
それはこう続く・・・「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある 正しく強く生きるとは銀河系を自からの中に意識してこれに応じて行くことである」・・・賢治はとてつもなく大きな何かと共振する精神を求めていた。そしてその何かとはおそらく「全一性」をめぐるものだ。もちろんそれは、仏教的縁起思想から導き出される必然的相互依存性の自覚によるところが大きい。しかしそれは宗教者としての哲理である前に、農民としての実感であり、詩人としての直観であり、学者としての洞察であったろう。
もとより利他と利己を二項対立概念とするのは「近代」のもたらしたパラダイム(思考の枠組み)である。自他不二という修験の果てに達する境界におらずとも、日常を生きる庶民が「情けは人の為ならず」との達観を口にする文化を持つ我々は、軽やかに客体(他)と主体(己)の区別を無化する。したがって利他と利己のどちらが「心の根底」かは不定である。
ただし、「心の根底」を生物としての本能の基底と捉えるならば、そこには「利己的遺伝子」(リチャード・ドーキンス1976)がプログラムされていると言えなくもない。我々生命は遺伝子を運ぶヴィークル(乗り物)にすぎず、その指令はただ一つ「生き残れ」である。あるいはまた、かつて帝国主義思想を支えた社会ダーウィニズム(ハーバート・スペンサー1864)に従えば、利他などは圏外の思想である。明治大正期に圧倒的な影響力を持ったこの思想はその後も資本主義の市場原理を支え、軍事侵攻に根拠を与え、現在の自己責任論をも強化し続けている。
さて、冒頭に挙げた引用はこう続く・・・「おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらすべての田園とわれらすべての生活を 一つの巨大な四次元の芸術に創りあげようではないか(中略) まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて 無方の空にちらばらう しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きている」・・・ここには「自己同一性」などという考えはない。いわゆる「自己同一性」形成のプロセスは、必然的に排除の構造を作り出すことに賢治は気付いていた。我々一人ひとりが大いなる全存在の一部であり、同時にそれぞれが全存在を内包しているといったフラクタル構造世界を、とうに承知していたものと見える。
カンパネルラもグスコーブドリも利他を利己に優先させた。夜鷹はこの二律背反に耐えかねて自己消滅の道を選んだ。これらの物語に触れる時、彼らのその静謐な佇まいと強さに結晶化した意志とに深く共感せざるを得ない。仮に我々が遺伝子によって<自己保存≒利己>にプログラムされた生命だったとしても、そして<適者生存≒利己>に突き動かされる社会的動物だとしても、それを裏切る行動を取らずにはいられないことにこそ人間としての尊厳はある。