お題:新渡戸稲造・芥川龍之介・内田百閒・夏目漱石・ラフカディオ・ハーン

 作家の全集というものを初めて買ったのは、芥川龍之介だった。神田神保町の古本屋の店頭に積み上げられていた筑摩書房版。本巻8冊に加えて別巻の全9冊である。高校三年の夏休みは、この全集を読んで過ごした。翌年に控えた大学受験に失敗したときの言い訳にするためである。勿論、受験は全国模試の合否判定「E」が意味する通りの結果となった。それでも、書簡まで含めて芥川作品にひと通り目を通したあの頃の自分は、褒めてやりたいと思う。

 芸術家の葛藤を鬼気迫る筆致で描く『地獄変』、怪異と幼心とを繊細な工芸品のように仕上げた小品『幻燈』(連作『少年』に収録)、あるいは黒澤明監督のモノクローム画面を想起させる『偸盗』。更には散々盛り上げといていきなり「未完」の『邪宗門』(笑)。今でも記憶に残っている作品は少なくない。もっとも、その後は読み返すこともなく、全集はいつしか本棚の後列に隠れてしまっていた。

 その芥川の作品を、半世紀近くを経て思い起こすことになった。しかも、そのきっかけが新渡戸稲造になるとは思いもよらなかった。


 新渡戸の命日である十月十六日の前日のことである。その日、始業前に同僚のK先生が見せてくれた新書は『続 新渡戸稲造75話』(藤井茂2012)。御礼もそこそこに目次をめくっていると、「芥川の小説のモデル」という文字が目に飛び込んできた。早速ページを繰る。
 「『手巾』ハンケチ、・・・あの大学教授か!」

 興奮気味に引用に目を走らせる。「教育者」「奥様は亜米利加人」「武士道」「東西両洋の橋梁」……。なるほど、登場する長谷川謹造教授は新渡戸稲造その人に間違いない。新渡戸が東京帝国大学で教鞭を執ったのは1914年から1918年(大正2~7年)。一方、芥川の在学期間は1913年から1916年(大正2~5年)である。英文科に学んだ芥川が、実際に新渡戸の講義を受けていた可能性は十分に考えられる。ただし、この短編から察する限りでは、後に近代文学史で「鬼才」と称される青年と初老の大学教授との出会いはあまり幸福なものではなかったようだ。芥川は新渡戸の実直な人柄に敬意を払いつつも、鋭い批判の眼差しを投げることを躊躇わない。近代的自我を死活的に模索する芥川にとって、新渡戸の「武士道万能説」はあまりに牧歌的と見えたに違いない。

 ところで、無名の学生だった芥川をいち早く評価した夏目漱石もまた、その十年ほど前まで東京帝国大学の教壇に立っていた。担当講座の前任者は、あのラフカディオ・ハーンである。NHKの朝ドラ『ばけばけ』で描かれた人物、と言えばお分かりだろうか。学生たちから絶大な人気を集めていたハーン。その後任を務めることになった漱石が、少なからぬ重圧を感じ、持病の胃潰瘍を悪化させたであろうことは想像に難くない。そのハーンには1894年刊行の”Glimpses of Unfamiliar Japan”(『知られざる日本の面影』)に収めた”The Japanese Smile”(「日本人の微笑」)という文章がある。夫や子を亡くした婦人が、微笑を浮かべながらそのことを語る日本の習俗について述べたものだ。欧米の人々には奇異に映るこの振る舞いを、ハーンは感情を抑制する日本人の美徳として捉えた。感情を表に出さず、内面を覆い隠すという点で、『手巾』に描かれたメインエピソードと作中の教授の思いに通じるものが見えてきて興味深い。

 さて、この一連の発見をした朝、私は通勤中に一冊の本を読み終えたばかりだった。内田百閒の『東京日記』(1937)である。現実と夢の境目が揺らぎ、幻視が日常の風景を侵食していくこの物語は『夢十夜』(夏目漱石1908)と『一千一秒物語』(稲垣足穂1923)とを掛け合わせたような、不思議な連作集だ。後に漱石門下の一人として芥川とも交流を深める百閒もまた、東京帝国大学に学んだ学生だった。在籍期間は1910年から1914年(明治43年~大正3年)。果たして独文科の百閒は新渡戸教授との邂逅があったのか、なかったのか・・・。

 新渡戸稲造、芥川龍之介、内田百閒。そして、夏目漱石とラフカディオ・ハーン。それぞれの人生や作品をたどっていくと、思いがけないところでつながっていく。しかも、そのつながりのいくつかは、かつて同じ大学の同じ時代の教壇や教室に引かれていた。こうした錚々たる人物たちが、あの本郷の台地を歩き、思索し、言葉を紡いでいた時代が確かにあったのだ。