お題:学校は楽しいところであるべきか?


隣に座っている若い教頭さんから、毎週容赦なく出されるお題に答えて、これで5回目。
初回をガチに答えてしまったのがいけなかった。
一度ガチで答えてしまうと、もう後には戻れない。
そろそろここから脱出したい。
そこで今回はレイアウトと文体、語彙のチョイスを変えてみた。
推敲も最低限に抑えて・・・だから長い。

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さて、今回のお題は「学校は楽しいところであるべきか?」。
まず私が引っかかったのは、「楽しい」ではなく「べき」の方である。
「べき」といっても、国際テロ組織テントのリーダー、ノゴーン・ベキの「ベキ」ではない(「VIVANT」)。助動詞の「べき」である。
現代語なら「当然・義務」あるいは「適当・勧誘」などを表す。
古典文法なら意味の識別は「すいかとめて」と覚える(受験知識)。
推量、意志、可能、当然・義務、命令、適当・勧誘。
高校生のころは「なんで一つの助動詞にこんなに意味があるんだ?古代人、お前らの世界観はどうなってるんだ!」と思ったものだが、今考えると、学校という場所そのものが「べき」の集合体なのかもしれない。

「学校はこうあるべき」

「教師はこうあるべき」

「生徒はこうあるべき」

「授業はこうあるべき」

べき、べき、べき。これではまるで「規律!規律!規律の遵守!」と繰り返す、パニックに陥った乃木憂助ではないか!(再び「VIVANT」)
そして今回のお題も、
「学校は楽しいところであるべき」
というわけである。日本語における疑問文は常に反語文の気配を宿している(・・・おっと、ガチに戻りそうになった汗)。


身も蓋もないことを言えば、学校は楽しいところであるに越したことはない。
では、そもそも「楽しい」とは何なのだろう。
例えば、これまでアップしてきた私の校長ブログを、「楽しい」と感じながら読んでくださっている方が、果たしてどれほどいるのだろう。
独善的にして難解。衒学的な語彙をこれでもかと並べ立てる・・・。
もはや「その翼を風に乗せるための航法」という爽やかなタイトルとは、まったく似つかわしくない。
それでも、かつての教え子たちからは、
「校長ブログ、始めたんですね。小倉節、健在!」
とか、
「小倉先生の書くものを読むときの気持ちよさを、久しぶりに味わいました〜」
などと連絡をもらう。
まあ、これで悦に入っているのだから、我ながら阿呆である。
ただ、「楽しい」と「面白い」は、どうやら少し違うらしい。
彼らと共に過ごした若き日の教師オグラは、いわゆる熱血教師だった。
それはそれは、学園ドラマを一本作れそうなエピソード満載の教師生活だった。
とはいってもラグビー部顧問として泥んこの放課後を過ごしていたわけではない。
一般的熱血教師は授業以外の場でその力が発揮されるイメージだが、
オグラは授業でこそ輝いていた(らしい)。
いわゆる「教育困難校」と呼ばれる学校へ異動後、初めて授業をしたときのことを、今でもよく覚えている。
授業が終わり、起立・礼の声がかかった。
その瞬間、廊下側最後尾の席から、
「国語、おもしれ~!」
という声が飛んできた。
制服の下にサラシを巻き、刈り込んだ頭にラインを入れた留年生だった。
教師人生の中で何度か、「ああ、もうこれで教師を辞めてもいい」と思った瞬間がある。
これも、その一つだった。
教師冥利に尽きる、というのはこういうことなのだろう。
ニーチェは1882年、『悦ばしき知識(”Die fröhliche Wissenschaft”)』という本を書いた。
英訳は “The Gay Science “・・・「愉しい学問」・・・。
知ること、考えること、それ自体が悦ばしい。
これは、学校という場所を考えるうえで、なかなか重要なことではないかと思う。
「楽しい学校」とは、いつも笑い声が響いている学校なのだろうか(反語)。
先生が面白い。
行事が楽しい。
友達と遊べる。
それももちろん大切だ。
しかし、学校には、もう一つの「楽しさ」がある。
昨日まで知らなかったことを知る。
わからなかったことが、突然わかる。
自分では思いつかなかったことを、誰かの一言で考え始める。
そして、何よりも「何を言っているのか分からないけれど、なぜか気になる」というものに出会う。
これは、必ずしも「楽しい」という言葉だけでは言い表せない。
むしろ「面白い」という言葉のほうが近いのかもしれない。
後日、サラシの彼から聞いたのだが、小学校からこれまでで「初めて国語の授業が面白いと思った」という。
学びに対する親近性と新奇性を併せ持つ感覚。
おそらく彼はこれを感じてくれたのだろう。
だから、
「オグラ、おもしれ〜」ではない。
「国語、おもしれ〜」なのだ。



ここ数年、縁あって、いくつかのドラマや映画の教育・学校監修に携わっている(最新の作品はNetflix「ダウンタイム」)。
学校を舞台にした作品を見ていると、学校という場所には独特の「記号性」があることに気づく。
たとえば、屋上。
屋上は「外」なのか「内」なのか。
「屋上に閉じ込められる」という表現には、少し妙なところがある。
屋上なのだから外なのに、そこから出られない。
「屋上に締め出される」と言ったほうが、まだしっくりくる。
屋上は、内と外、解放と拘束、公と私、空と風、その境界にある。
だからこそ、学園ドラマでは特別な場所になる。
1969年1月30日、ロンドンのアップル社ビルの屋上で、ビートルズが突然ライブを始めた。通報を受けた警察官に止められるまでの42分間。
いわゆる「ルーフトップ・コンサート」である。
屋上という少し奇妙な場所が人を惹きつけ、そして解放する。
学校という場所にも、そういう「境界」があるのだと思う。

規則がある。
時間割がある。
先生がいる。
試験がある。

けれど、その一方で、学校は、家庭でも社会でもない。
大人になる途中の境界人間が集まり、笑い、喧嘩し、恋をし、失敗し、何かを知り、何者かになっていく(あるいは「ならず者」として燻る)。
その意味では、学校はずいぶん不思議な場所である。



私が教師になった1981年、フジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」というスローガンを掲げた。
漫才ブームの真っただ中。
「笑っていいとも!」や「オレたちひょうきん族」が始まり、「楽しい」「面白い」は、真であり、善であり、美であり、なんなら正義でもあった。
一方で『現代思想』をはじめとして『ユリイカ』『エピステーメー』『遊』『is』などの雑誌に象徴されるニュー・アカデミズムが隆盛を迎えていた。
記号論、構造主義、ポスト構造主義といった知のブームが巻き起こったのだ。
私も原宿ラフォーレでDCブランドの服を選ぶように、吉祥寺パルコ地下の書店で分厚く難解な哲学思想書の背表紙を眺めていたものだ。
まあ、振り返ってみれば、なかなか大変な時代であった。
つまり
「楽しくなければ世界じゃないもーん」
というルンルンな世界線と、
「そもそも、世界とは何か」
と根源的問いに向かう世界線が、デュアルに存在していたのである。
学校もそれでいいのではないかと思う。

笑わせてもいい。
考えさせてもいい。
すぐには意味がわからなくてもいい。
時には苦しい時間が続いてもいい。
その先に、「あれは面白かった」と思える何かが残るなら。



昨年度まで非常勤講師をしていた大学で、こんな話をしたことがある。「高校生の10%が通信制高校に通っている現在、全日制普通科高校はその歴史的使命を終えつつあるのかもしれない。さらに生成AIの進化を考えれば、知識を与えるだけの教師はもはや必要ないとも言える。では、学校の先生という存在は、これからも必要なのだろうか?」
すると、一人の学生がこう答えた。
「青春に先生は必要です」
これには泣けた。
嬉しかった。
そうか。
教師はナレッジギバーである必要はないのかもしれない。
答えを教える人でなくてもいい。
青春という、人生の中でほんの一時期しか存在しない時間帯に登場するキャスト。
一緒に笑い、時には怒り、何かを問い、何かを面白がり、そして生徒の記憶の片隅に残る。
それが先生なのかもしれない。
だから、
「学校は楽しいところであるべきか?」
と問われたら、私はこう答えたい。
楽しいに越したことはない。
でも、それだけではない。
学校は面白いところであってほしい。
知らなかったことに出会い、知らなかった自分に出会う。
笑ったり、悩んだり、失敗したり、時には退屈したりしながら、それでも「ああ、学校って面白かったな」と、何十年か後に思い出せる場所。
そして、そこにはいつも先生がいる。