お題:「余白」ということ
先日、硯を制作する製硯師(せいけんし)のお話を伺い、実際に硯を手に取って愛でる会に参加した。日々、スマホの軽さや薄さに慣れている手に、磨かれた自然石の重さと肌触りは思いがけない心地よさをもたらした。
山から抜かれた石の姿を生かすため、「海」と呼ばれる窪みを含め、加工は最小限にとどめるという。製硯師はその姿勢を「石の前に立たない」と表現した。平安時代の造園書『作庭記』(著者・成立年不詳)には「石は乞はんにしたがへ」とある。庭の石組みは、石自身が望む場所に据えよ、ということだ。同様のことを哲学者・和辻哲郎は『風土:人間学的考察』(1935)の中で「石の気を合わせる」と述べている。おそらく製硯師は石の気を読み、その声に耳を傾けながら硯を彫る。石の持つ個性を生かし、自然の姿を損なうことなく、新たな造形へと導く。日本の庭園が山水の「縮景」という造形性を強めていくように、あの小さな硯に悠久の山水の景色を感じるのはそのためだ。
ところで、その硯を含む「筆墨硯紙」を文房四宝と呼ぶ。道具それぞれに固有の機能があり、役割がある。硯で墨を擦りながら思索を深め、徐に筆を取り、筆先を紙に落としていく・・・。そして現在、この文房四宝の機能はタブレット一枚に集約されつつある。学校ではこのタブレットに象徴される教育のDX化は、教職員の多忙化を解消し、生徒一人ひとりに応じた学びを実現し、多様性を保障するものとして期待されている。更には次期学習指導要領のキーワードの一つである「余白」の創出にもつながるというが、果たして、本当にそうなのだろうか。ここで私が思い起こすのがドイツの作家ミヒャエル・エンデによる児童文学『モモ』(1973)である。
この物語に登場する時間泥棒の「灰色の男たち」は、人々に時間を貯蓄することを勧める。しかし、彼らに預けた時間は、人々を豊かにするどころか、生きる喜びを奪っていく。時間を節約することと、時間を豊かに生きることは同じではない。効率化によって生まれたはずの時間が、さらなる効率化のために費やされてしまうのなら、私たちは何のために時間を節約しているのか。教育のDX化によって生み出されるはずの「余白」が、いつの間にか新たな業務や効率化のために吸い上げられる、つまりは「灰色の男たち」に奪われることのないよう、「少女モモ」の知恵に学ぶ必要がある。
振り返れば、『モモ』が発表された1973年は、情報技術が新たな段階へと進み始めた時代でもあった。インテルがマイクロプロセッサ4004を発表したのは1971年。コンピュータの小型化と普及につながる技術革新が進む一方、オイルショックは資源と成長の限界を人類に突きつけていた。翌1974年、ローマクラブは『転換点に立つ人類』を発表し、持続可能な社会システムへの転換を問いかける。技術の進歩と、人類が直面する危機。この二つは、半世紀を経た現在、どのような関係にあるのだろうか。技術が進歩すれば、私たちは危機を乗り越えられるのか。少なくとも、技術革新それ自体が、その答えを保証してくれるわけではない。
さて、同じくエンデによる『はてしない物語』(1979)にも示唆に富む次のような一節がある。場面は主人公アトレーユが「南のお告げ所」に通じる難所である三つの門に挑む前に、妖精の老人に教えを受けている下りである。そこには、何もない大地に門だけが建っているのだと言う・・・「(それなら)外側をぐるっと回って行くこともできるんじゃないかな。」「できる。無論できる。ただし回って行ったのではその向こうには何もない。第二の門は第一の門を通って初めて存在する。」事実、アトレーユは門を通過すると、何もなかったはずの向こう側に新たな門を発見するのだった。ここには、通過儀礼(イニシエーション)という問題とともに、プロセスそのものが持つ意味が描かれている。目的地に到達することだけが重要なのではない。そこへ至る道を歩き、門をくぐるという経験によってこそ、初めて見えてくる世界があるのだ。
文明とは速度の別名である。そして、速度は空間の質をも変える。「どこでもドア」を目指す文明は、移動に必要な時間を省き、距離を克服しようとする。その一方で、プロセスを切り捨てることによって、そこに存在するはずの意味まで見失いつつある。硯で墨を擦る時間も、筆を手に取るまでの逡巡も、言葉を探しながら紙に向かう躊躇いも、単なる非効率ではない。そこには、考えるための時間があり、ものと向き合う時間があり、自分自身と出会う時間がある。
教育における「余白」とは、単に空いた時間のことではないはずだ。何かを急いで成し遂げるためではなく、立ち止まり、考え、迷い、ときには遠回りをすることのできる時間と空間のことである。プロセスを喪失しつつある私たちに必要なのは、ただ速く目的地に到達することではない。歩くべき道を歩き、くぐるべき門をくぐることだ。それがなされなければ、私たちは虚無の広がる地平に立ちすくむことになりかねない。