お題:AI画像やAI文書に漂うAI臭とは何か?


 精神病理学に「プレコックスゲフュール」という術語がある。統合失調症患者の臨床検査で感じる「接近不能感」のことである。これは医師でなくても健常者であれば、誰でも感じ取ることができるという。精神病理学者・木村敏は、この感覚の構造を「気」の概念の導入によって明らかにする(『分裂病の現象学』1975)。つまり「気の場所に立つ限りにおいて、自と他はそのまま絶対的な個別者でありながら、そこに自即他、他即自の関係が成立する」のだが、精神分裂病(統合失調症)患者はその「気の場所」が成立しない。そこにこうした「接近不能感」が生まれるというのだ。「気」とは自己の広がりと関係がありそうである。


 また、この「気」について、哲学者・市川浩は身という言葉に匹敵あるいはそれ以上の広汎な意味の広がりを持つとしている(『<中間者>の哲学』1990)。「身と気は、いずれも心に比べると非人称性・自他未分性が強いが、大ざっぱにいえば、身は凝縮的・局在的であり、気は拡散的・遍在的である」と言い、「ともに一つのレベルのカテゴリーにおさまりきらない多重性と、容易にレベルを移行する傾斜性をもち、両者は心のあたりでオーバー・ラップする」とする。


 我々は「良いお天気になりましたね。お元気でしたか。」と、天体と身体の気象を一気に語る挨拶を日常的に交わす者だ。自己あるいは身の滲み、広がりとしての気に鋭敏に感応する。そして気を付けたり、気を落としたり、気を取られたり、気が抜けたりと、日々「気」のコントロールとモニタリングに余念がない。ところが、身体(モノ)も自己同一性も持たないネットワーク(コト)であるAIに気は存在しない。我々はそこに一種の「プレコックスゲフュール」、あの違和感を感じ取るのではないだろうか。すなわち、これがAI臭の正体だ。それにしても気の不在を気配として、いわば「不在の在」を嗅ぎ取る人間のセンサーの繊細さにはほとほと驚かされる。ただ、この<違和感=AI臭>もロボット工学における「不気味の谷」(森正弘1970)と同様に、テクノロジー進化の過程でいずれは消滅(感知不能レベルまでの超絶技巧化)していくのであろう。全てのテクノロジーはとめどない自己最適化に向かって世界を改造し続ける。そしてテクノロジーにモラルはない。


 ところで、対象のない恐れが「不安」であり、対象のある恐れが「恐怖」であるとすれば、「不気味」とはその間に宙づりにされた感情だ。不気味の谷を越えようとしている現在のAI進化の先に「親密」があるのか、「恐怖」があるのか、あるいは「親密をまとった恐怖」として我々の前に現れるのか・・・。我々の世界を構成するのは「言語」であり、それによって作られ、起動された「自己」である。つまり世界は自己の投影として構成される。とすれば、AIとそれが作り出す存在もその投影のひとつになるはずだ。しかしそれは「幼児の万能感」に近い「(妄想的)自己」の投影であろう。およそ人類が長い歴史の中で培ってきた理性と知性に基づく自己ではない。ここ数日の間に世界中で起きているAI界隈の激震はおそらくその辺りに由来する。