3月19日(土)に中学校・高等学校の2021年度修了式を合同で実施しました。
校長の話、各種表彰の後、今年度でお辞めになられる先生方のご挨拶を行いました。

昨年度に引き続き、今年度もコロナ禍での学校生活を強いられ、高3の修学旅行が延期の末中止になり、新渡戸祭もスタディーフェスタもオンライン中心の開催、卒業式も在校生抜き、祝う会を中止するなど、コロナ禍以前の学校生活を取り戻すことは出来ませんでした。しかしその一方で、登校できない際には引き続きすぐにオンライン授業に切り替え、学びを止めず、十分な感染対策の上に、旅する学校(スタディツアー)も実施することが出来ました。

保護者の皆様におかれましては、1年間、本校の教育活動にご支援頂きましてありがとうございました。次年度も引き続き、ご協力よろしくお願い致します。

受験生の皆様も説明会にご参加して頂きありがとうございました。今後も、より良い説明会を目指して参りますので、2022年度の説明会もご期待ください。

最後に、修了式での校長から生徒へのメッセージをご紹介させて頂きます。

昨年度、2020年9月の二学期始業式でこんな風なメッセージを送ったことがありました。

「この世界は、あなた一人ではなく、あなたとわたしの二人でもなく、あなたとわたしとここにはいない誰かから出来ています。つまり一人称から二人称、そして三人称という世界観を自覚していく過程こそが「一人前になる」ということなのです。」

中高2年生の諸君、覚えていますか。中高1年生の諸君、どうでしょうか。世界は「わたし」ひとりでは成立しません。「わたし」はわたしではない他者が存在してはじめて事後的に発生するものです。そして世界はわたしとあなただけでできているものではありません。ここにはいない、見えない誰かとともに出来上がっています。そしてその誰かは、たとえば遠くにいる見知らぬ人でもあり、今現在は存在していない過去や未来の人でもあります。物事を判断し、行動するときにはそうした「誰か」の存在も意識しながら行うことができて一人前だという意味です。どうでしょう。みなさんはこの2021年度という一年間で「一人前」に近づけたでしょうか?

 

あなたがここ新渡戸文化中学校・高等学校で過ごしている間に、世界は大きく変わりました。残念ながらその変化はどちらかというとあまり好ましい方向ではありません。新型コロナウイルスの猛威は猖獗を極め、この二年間、かつての日常は奪われたままです。今、この時もここ東京では一日の新規感染者が一万人近いという第六波の只中です。将来世界史の年表に大文字で記されるであろう危機に直面しているのが私たちなのです。そして今、世界はもうひとつの危機の中にいます。ロシアとベラルーシによるウクライナ侵攻です。そしてそこから再び姿を現そうとしているのが、分断と敵対というおそろしい化け物の徘徊する世界です。

 

「私とあなた」ではなく、「我々と奴ら」という敵対関係をあおる言葉。あるいは「ここにはいない誰か」の存在を黙殺あるいは隠蔽した「我々」だけで利益を独占しようという行為。そこには他者を認めない偏狭で傲慢な、いやむしろ残虐とも言える許されざる思考があります。「一人前」であるはずのわれわれ大人たち自身が、平和や自由といった人類が築き上げ、育ててきた大切な価値をないがしろにしているように思えます。戦争は物理的に町を破壊し、人々の命を奪うだけでなく、人々の心を傷つけ、すさんだものにしています。ですから、今こそ再び君に届けたいと思います。「世界は私とあなたと、ここにはいない誰かで出来上がっている。そしてその誰もが、この世界のフルメンバーである」と。

ここにはいない誰かとは、たとえば国境に向かって道を歩くウクライナの少女です。自国の軍隊に家を焼かれたミャンマーの少年です。あるいは東日本大震災で亡くなった老人です。そして10年後にうまれてくる、あなた自身のこどもです。あなたが生きられるこの世界とは、こうした「距離」と「時間」を超えて出来上がっています。

その世界の平和が脅かされています。平和を維持する困難はその意思の積極性が行為に反映しにくいことに起因します。それに比べて戦争はその意思が行為に直結し、その行為の積極性は更にその意思を増進します。平和維持を反映した行為がしばしば「祈り」という姿勢にとどまらざるを得ず、あるいは「平和を守るための戦争」といった自己矛盾に陥るのはそのためです。そして戦争が必ず泥沼化し、とめどない憎悪の連鎖を生み出すのもそのためです。彼の地では、今日も誰かの日常という幸せが絶たれ、誰かの明日という希望が吹き飛ばされています。それを分かってはいても行為にたやすく結びつかないもどかしさ。

平和への意思を行為に結びつけるものは何か。それは正しい情報かもしれません。先人の知恵なのかもしれません。あるいはほんのすこしの勇気なのかもしれません。少なくともあなた自身がこうした問いを立てることが、平和に強靭な歩みを与え、戦争を押しとどめることに繋がると信じています。